内田樹「修行論」一部抜粋。

このところよく読んでいる内田樹先生の数年前に出版された「修行論」という本の一節。

 

先人が瞑想という技法を発明したのは、もちろん、「生き延びるチャンスを増大させるため」である。これは断言してよい。人類の祖先たちが創意工夫を凝らした心身の技法はすべて、「生きる知恵と力を高める」ためのものである。

おのれの頭が悪くなり、身体能力が低下し、生きる意欲が失われるような技術の洗練のために創意工夫をする人はいない。仮にいたとしても、頭が悪いのでアイディアがうまくまとまらず、身体能力が低いので自分がしたいことを身体的に実行できず、生きる意欲が低いのですぐに死んでしまい、その人の考想は今に伝わらないはずなのである。もう一度繰り返す。「先人が工夫したあらゆる心身の技法は生きる知恵と力を高めるためのものである」これが二つめの命題である。第一の命題は最初の方に掲げた。お忘れかも知れないのでもう一度書いておく。「額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある」人間は額縁がないと世界認識ができない。だが、一つの額縁に固執すると、やはり適切な認識ができない。この二つの命題を並べてみたときに、瞑想についてのより包括的な

第三の命題が導き出される。すなわち、

「私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選択することができなければならない」

額縁を「現実と非現実の境界線」というふうに言い換えたが、それを「意味の度量衡」と言い換えてもよい。目の前に出現した「もの」に、最適の「意味の度量衡」をあてがうことである。

「重さ」を量るべきなのか、「長さ」を測るべきなのか、「速度」を計るべきなのか、「粘度」や「光度」を計るべきなのか。

それを私たちは瞬時に判断することを求められている。こちらに向かって暴走してくる自動車があるときに、その「デザイン」や「カラーリング」についてどれほど適切な審美的判断を下しても、それによって私たちの生き延びる確率は向上しない。それよりは、暴走車が私のところまでどういうコースをたどって、何秒後に到達するのかを正確に予測できる度量衡を選ぶべきである。

度量衡の選択は、「それを選択することによって生き延びる確率が高まる」かどうかを基準になされなければならない。

そういうことである。

 

割と理解出来たと思ったところを引用してみた、自分がこの文章を書いていたらこういう感覚になるのかというのを少しでも追体験、疑似体験してみたいと写経のように書き写してみた。この2ページほどの1000字程度の文章だけで高い知性の一端が窺い知れた気がする。まさに知の巨人。いや神戸にお住まいだから阪神か。あと書き写すだけでもタイピングの基礎がないので時間がかかり過ぎて嫌になる、ブラインドタッチの技術を身につけたい。これも生き延びる為である。