不道徳教育講座

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三島由紀夫が女性向け大衆週刊誌「週刊明星」に連載していた洒脱で軽快なエッセイ集。世間でまかり通っている良識や常識、道徳を逆手に取ってあえてスキャンダラスな言説を読者に投げかける、井原西鶴の「本朝二十不孝」をもじった刺激的かつ偽悪的な「不道徳教育講座」。例によって読んでて気になった箇所を引用すると/私も、何となく「ウソ」というドス黒いような言葉より、「正直」というクリーニング屋からかえって来たてのワイシャツみたいな白く光った言葉が好きだし、ウヌボレと虚栄心から、自分を相当な正直者だと思っている。/私も少年のころ、醜聞を持った友だちがうらやましく、自分も架空の醜聞を立てようと思って骨を折ったが、もともと臆病で、大した度胸もないことを、まわりの人たちは見抜いているから、一向スキャンダルも立たず、生煮えにおわりました。(中略)スキャンダルは決して本質をつきません。奇抜的な芸術的本質などは、スキャンダル的成功のおかげで、なかなかわかってもらえないことになるでしょう。しかし十人の人に見てもらうより、千人の人に見てもらえば、それだけ、知己を得る確率は多いわけです。スキャンダルの成功は、かくて、確率の利用なのであります。一粒選りの成功ではなくて、まず砂をざっくり箕にすくい上げて、ふるった末に、一粒でも二粒でもの砂金が発見できれば、それに越したことはありません。砂金とは真価をみとめられる本当の成功です。しかしこんな早手廻しの方法が、案外大へんな遠まわりである場合も多いのですが…。/謙遜ということはみのりのない果実である場合が多く、又世間で謙遜な人とほめられているのはたいてい偽善者です。(中略)何も自信を持てというのではない。自信とは実質を伴う厄介な資格である。誰でもなかなか本当の自信などもてるものではない。しかし己惚れなら、気持ちの持ちよう次第で、今日から持てるのです。しかしこの己惚れにもやはり他人の御追従が、裏付として必要になり、他人と社会というものが、われわれの必需品である理由はそこにあります。/世間には、流行というと何でも毛ぎらいする、ケツの穴のせまい人種がいる。(中略)流行は無邪気なほどよく、「考えない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、あとになって、その時代の、美しい色彩となって残るのである。軽佻浮薄というものには、何かふしぎな、猫のような生命力があるのです。/「われわれはみんな、他人の不幸を平気で見ていられる程に強い」(ラ・ロッシュフコオ)健康な人間とは、本質的に不道徳な人間なのであります。/男でも、地方から上京して、ミスター・何々とかいうものになって、郷里の人たちから旗行列で送られて、何年たっても一向芽が出ず、画面の遠景をチラチラかげろうのように動いているばかりで、セリフ一つ言わせてもらえず、国へもかえるにかえれなくなって、身を持ち崩す連中は沢山います。(中略)本当の人生の夢は、一度こういうものがコテンコテンにつぶされないと、芽生えて来ないのです。/悪口の的になるのは、必ず何らかのソゴであります。外見と中身のソゴ、思想と文体のソゴ、社会と個我のソゴ、作品の意図と結果とのソゴであります。第一の無邪気な悪口はほとんど悪意はなく笑いのほうが優先している。第二の悪口は意図をまず理解し、次に意図の実現の方法を笑って、そこを批評する。そして第三の悪口は、こうなったら悪意ばかりで、笑いは一かけらもありません。などなどシニカルながら鋭く本質を突いた三島の思考が垣間見える。