ぼのぼの7
おそらく6巻からの続き。巻をまたいだのは初めてだったので最初なんのことか分からなくてまごまごした。少し読んでようやく前からの続きだと気がついたが、ほぼ忘れてた。どうやらゴンゾとカシラという熊たちがスナドリネコさんをやっつけようとしているらしかった。一方でアライグマくんとぼのぼのとシマリスくんたちはまた別のところで遊んでいて、さらにまた別の場所ではビーバーの家族が(カッコいい)シマリスさんを探しているようだ。(このくだりは何となく覚えている)あちこちで色々なことが起こっているが、それぞれが特に交わるわけでもないというジャームッシュのナイトオンザプラネットのようでカッコ良かった。まあれは地球規模やけど。でもそれくらい森も広いのだ。ついつい人は自分の中心から半径100メートルくらいがすべてだと考えてしまうのだが(つまりはそれが主観ということなのだが)常に別の視点から物を同時に見ることを忘れてはならない。それを意図してるかどうかは分からないが、いがらしみきお作品には頻繁に全然物語の進行上に関係のないモノの視点が突然提示される時があって世阿弥の「我見、離見、離見の見」を現しているようですごいなと思う。フレームの外の世界を想像させる。あと気になったのはこのぼのぼののやさしい世界のなかで唯一の暴力装置といっていいアライグマくんの存在が今回は特に悪目立ちしてしまっているように感じた。今日びならあとあとクレームが来そうなくらい若干安易な蹴りオチが多用されてて作者のいがらし先生のメンタルが心配になるほどだった。苛立ちを感じながら作ってる気がした。全然違うかもしれないが…漫画家が憧れる漫画家ならではの悩みのような気がした。全然違うかも知れないが…それとアライグマくん(いわゆる世間によくいるいじめっ子タイプ)の言うぼのぼのが考えた遊びは「ケンゼンでせこい」といい「もっとスリルのある遊びがいい」と「目をつぶってぶつかれ」とか「相手に何も知らせずにぶつかれ」とかいう。ここでオレはいつも戸惑う。悪い事をすることへの反射的な抵抗感が出てくる。まあ単純に根性なしなのかも知れないが幼稚やと感じて立ち止まってしまう。なぜみんなそんなに悪に魅了されるのか、なぜ善は退屈でつまらないのか(とされるのか)この辺りのことはずっとあってその感情が澱のように溜まっている。いよいよ解明したい。でひょっとしたらいがらし先生のメンタルではなく読んでる時のオレのメンタルがぶれてたのかも知れない。そんな気がした。そういう意味もあって漫画も小説も映画も古典に回帰しているのだと思う。