遅読術

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面白くて一気に読み終わってすぐに2回目を読み始めた。まず見開きから→「自分を救えるのは自分ではないと気づくことだ。自分の力などたかが知れていると思い知ることだ。」と自己啓発本の類なら大概「自分を救うのは自分しかいない」と書かれていそうだが、その逆を突かれ「ん?」となる。確かに我々現代人はマスコミや広告代理店のプロパカンダに毒されているとはよく言われる話ではあるが、では具体的にどう毒されているのかまでは深く考えない。何となく→「情報」を集めれば「正解」に辿り着くと信じているバカが多いのである。ではどうすれば良いか?それが適菜氏が昔から言っている「古典に還れ」「古典をあたれ」ということだ→「大事なことは、真っ当な世界に連なる意思をもつこと」だ。バカとは価値判断ができないとある。今まで生きてきてある程度こんなものかと高を括ってしまいがちだが実はこれまでの生き方は自分や親やその他の影響を受けて我流で考えた一面的な生き方である。その一面的な生き方をせず→世界が環境との関係性であるとするならば本を読むことでほとんど人生は変わる。と。それを期待する→「とりかえしのつかない人」とは近代大衆社会において、正気を失い時代に流されるしかなくなった人。である。偉大なものに常に立ち返る。偉大なものに敬意を示すことが大切。また引用の中で三島由紀夫は→一流の文学は読者に媚びるのではなく「ノウ」を突きつける。自分を否定し自分より大きいものを受け入れる姿勢。また鹿島茂は→読書の効能とは「事後的」にしか確認出来ないことにある。言い換えると事後的であるから、これから人生を始める若者に読書した方がいいよと「事前的」にはいえない/これは多くの先人たちの後輩への助言にもあてはまることだ。後輩たちは未だそれを、経験していないから事後的に言われてもピンとくるわけがない。こうして時間がたち後輩だった人間が先輩になり初めて理解し後輩たちに教えてあげようと「事前的」に助言をするのだ。だが後輩はピンと来ない。なぜならば後輩にとってはまだそれは未経験の事前的な助言だからだ。という連鎖が延々繰り返される。だから「とにかく読め」「黙って読め」しか具体的なアドバイスはしようがない。はほんと納得。ショウペンハウエル「読書について」より→読書の本質は、もっと危険なもの、読者に反省を迫る、迷妄の中で暮らしている、深く病んでいる、精神の奴隷であるという事実を直視し真っ当な世界につながる努力をする。未来や過去といった長いスパンを基準にして現在を考える。世論に流されるのではなく、人類が維持してきた正気について考える。その為の読書。今まで読んできたひたすら数を積み上げるのとは違う読書の方法もそろそろ取り入れる時期に来ているのかも知れない。特に今読んでる「ゲーテとの対話」(エッカーマン)は本当に多くの著名な人が勧めている本だと知り、また日を置いて改めて読み直そうと思った。気になるところに線を引き抜き出して資料として持ち歩き事あるごとに見返して自分に浸透させるというのはいいアイデア。もう「読んだけど全然覚えていない」はいい加減卒業したい。いつかこのやり方をやってみたい。齢40を超えてもう「とりかえし」はつかないのかも知れないが、だったら言い訳をせずにやってみるべき。との言葉を信じてやってみよう。事後的にしか分からないのならとにかく黙って読むしかなかろう。