マンゴーと手榴弾

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おそらく作者のことをtwitterで知って今回はじめて著書を読んでみたが「生活史」「社会学」というジャンルがあるのを初めて知った。それだけでも読んだ意味があったが、中身は少々いやかなり難しかった。「生活史調査」とはある社会問題や歴史的事件の当事者や関係者に聞き取りを行い、語られた人生の経験の語りをマクロな歴史と社会構造とに結びつけ、そこに隠された「合理性」を理解し記述することである。つまり人びとの人生のなかに実在する、生きづらさ、しんどさ、孤独、幸せ、悲しさ、喜び、怒り、不安を聞き取りその人びと(例えば沖縄戦を経験した人たちや被差別部落で差別された人たち)の個人の人生の語りを通じて「歴史と構造」の中で生きている人びとの人生を考える方法である。文章にすればたったこれだけだが(それだけでも十分むずかしいが)その聞き取りした内容をどう捉えどう考えるのか?がまたとても難しい。例えば、部落に生きる人たちに調査をして当然差別を受けたことを前提に話をするが、人によってはその地域の中にいる限り「差別されたことがなかった。」という人もいてそう言われたある学者が「差別されていることにすら差別によって判断力をはく奪され気付けない。」と書き思わずなるほど、そうかと思ってしまう。その部分を引用すると『それは私たちの意思や意図、感受性、行為能力を深いレベルで解体する。差別的構造によって私たちは本来なら持ち得たはずの合理的な(つまり自分たちにとって利益をもたらすような)判断力や行為能力を剥奪されている。そのため、私たちの意図や意思はいわば無意識のレベルで外部から介入されていて自らの不利益になるような選択肢を「選ばされる」ことによって、その差別的な構造を再生産させている。』とあり納得出来るのだが作者はそれを言下に否定する。それは何故か?その考えは自己責任倫理の差別的な考え方に対抗して当事者の責任を解除するために必要な作業であったが「無意識の構造」にまで介入し操作する差別や権力という理論によって描かれる当事者がどのようなものになるか。それは「徹底的な無能力者」であるからだという。「非合理な行為者をどう理解しその行為や語りをどう記述するか」は現在でも簡単には解決のつかない問題である。責任の解除は能力の否定と結びつくからである。んー難しい。これを書いてても頭が混乱してきたwwその他「嫌なら出ていけばいい」とする基地問題の自己責任論(最近とくにこの「自己責任論」は頻繁に取りざたされている気がする)など示唆に富む内容が書ききれないくらいだ。最後に作者は社会学者自らの存在意義と仕事をこう定義する。少々長いが引用する。『基本的にはこの世界に意味はない。私たちがある戦争に巻き込まれてしまうことにも、ある階層に生まれついてしまうのも、あるいは「男」や「女」であることについても、どれも無意味に決められている。私たちの絶対的な外部で連鎖している無限の因果関係の流れのなかに、私たちはとつぜん放り込まれ、そこで生きろと言われる。そして、そういう因果のつながりのなかで、私たちは、配られた手持ちの資源をなんとか使って必死に生きようとする。意味とはまさに、この「必死で生きようとすること」そのものである。私たちは、なぜ私たちが存在するのかということについては理解することはできない。しかし、そうした理解できない世界のなかで、どうやって必死に毎日を生き延びているかについては、お互いに理解することができる。私たちは人間についての理論をつくりあげようとするのだが、その作業に終わりはない。それは無限に続く。社会学者にできることがあるとすればそれは、それぞれ一回限りの歴史と構造のなかで、その状況において行為者たちはこの行為を選択したのだという事例の報告を、無限に繰り返すことだろう。』生きた証を残し続ける。それだけでいいと言われている気がしてなんだか少しホッとした。