ネトフリ三昧

ここ最近Netflixに入会して面白そうなアニメや映画を片っ端から見始めている。

 

本を読む時にもやっていた同時進行で10作以上を観るのは意外と観れることが分かった。ただあとであのシーンが何の作品のものだったか?と思い出しても直ぐにわからない。すべてを一緒くたにそれ事体がまるで一つの作品であるかのように連続で見ているからだ。そうしてみるとどの作品にも高い確率で山寺宏一がいることがわかる。これは彼がそれだけ売れっ子であるからか、はたまた私が同じ系統の(同じ畑のあるいは同じ組の)作品ばかり見ているからか、あるいはそのどちらもか?またあるいはそのどちらでもないかである。(つまり何も言っていない)いずれにせよ彼と大塚明夫の仕事ぶりには敬意を抱く。抱かざるを得ない。まあいまさらそんな鼻息荒く言うまでもなかったが。

 

こないだ観たビルゲイツのドキュメンタリーで彼は読んだ本の9割は内容を覚えているらしい、まったく天才らしいエピソードだが私は読んだそばからデータを削除して次のエピソードをDLするNetflix仕様よろしく観た内容はほとんど覚えちゃいない、いな覚えられない。せっかく日々こんなに多くの作品と触れているのにも関わらず全くもったいないにも程があるが「私の頭の中の消しゴム」状態なのだから致し方あるまい。でも今例えたように、例えるという事は、何かしらの雰囲気、大まかな概要くらいは少しだけ覚えているのかも知れない。まったく「やれやれだぜ」とJOJOじゃなくても言いたくなるが、これもなんとなく記憶の片隅に「カス」みたいにあるいは「澱」のように残っているのだ、そうやって抽斗に色々と詰め込んでいく作業をしてほとんどはやがて箪笥のこやしになるかも知れないが、次々と機関車の石炭のように知識を詰め込んでいき少しずつ地層のようにあるいは火山灰のようにやがて記憶が降り積もるのかもしれない。そうやって知識は身に付く。のだろうか?それとなぜそこまで必死に詰め込むのだろうか?と聞かれたとしたらそれは多分集中したいからかも知れない。このいやな時間が早く過ぎる為に「没頭」をしてやり過ごしたいのかも知れない。あとできればビルとは言わないまでも知識を吸収したい、賢くなりたい気持ちも当然ある。まあ単純に楽しいのと一過性の流行病みたいな面もあると思うからやがて全然見なくなる時が来ると思うが。どのみち頭の容量はファミコンばりの8ビットくらいしかなくていやになる。何よりも脳の記憶機能の義体化(攻殻機動隊)を望んでるのは私かも知れない。

※あとで数えてみたらDLしている作品は30以上にのぼった。ちゃんと記憶できるということが頭の良さなのかも知れない。