ブログ投稿日数が今日で500日だってさ。

結果全部をひけらかす気持ちで身をなげうってすべて晒すつもりでやらないと(あるいは晒しているように見えないと)あかんのだろう。こう書き始めた途端に何が言いたいのか見失ってしまったが、あそうそうそれくらいしないと表に出れても人の注意は引けないよってこと(誰もお前のことなど見てないよってこと、最初から無条件に見てくれるのはお前の親くらいなもんだ、その親もいまじゃお前にこれっぽっちの興味も失って

いるだろうがな)横並びに並んでる人たちもお前と同じように目立とうとしている場合目立とうとしない方が却って目立つかも知れない、けれどこれは奇策でありウラ打ちの考えであり基本的には声の大きい方色の明るい方にどうしても人の目は奪われる、それが普通だし当然だろう。それはつまりこちらに目を向けさせる為には布団たたきで布団を叩いて音を出し続け声を出し続けなければならないことを意味する。それは結局はよくいう体力勝負のどぶ板選挙を強いられるということだ。だがやはりそれはそうとしてもその作戦は取らなかった。トップを取りに行く人間はトップを取る一歩目の足をどこに置くのかを考えなければ頂上にまでたどり着けないと思ったからだ。(それと体力勝負がしんどいしめんどくさいし格好悪いし面白くないというのももちろん大いにある)そしておそらくこの見方は正しいと思う。(正しいことが分かったからその道に行けるわけでは必ずしもないが)傲慢に聞こえるが峻厳であり差別的なのだ。ようするに0から作りプラットフォームを作るのかそのプラットフォームに乗っかってそのなかで台頭しようとするのかということか?(段々書いてるうちに考えがごちゃごちゃしてきた)だから主導権を握る為にこちらのやり方でやるということだ、ただ時流を捕まえられなければ大失敗に終わる可能性があるということだ。(いまのところはまったくもっての大失敗だがまだ一応と一縷のファイティングポーズは作っている)でもこのメリットとしては誰にも注目されていない分なんぼでも失敗出来ることだ、失敗しても誰にも知られない。潜伏しながら準備が出来るそれが最大のメリットだ。マイナス点は誰にも待たれていない分、自分で奮い立たせなければ続けるのが難しいということだ。油断すると全然無関係に生活していけるのだ。その生活の方が楽しく見えてくる。ともあれ本流の、メインストリームを取りたいと思うのならそのような行動を、違う場所で生きていくのならそのように行動することだ。カオス。(親日内藤哲也のカブロンみたいに言うたけど言うてないけど)

 

所詮下世話にはなれなかったし運をつかむような場所に行けなかったことは後悔している。次は自分ひとりで行動をどんどんしていきたい。むしろもっと落ち着けと言われるくらいに動きたい。当然それも難しいのだろうけど方向性はあっている。(方向性だけだけど)

 

「この世界じゃ愛想のいいのは嫌われるのよ」(草薙素子攻殻機動隊

 攻殻機動隊はじめいまネットフリックスで見ている作品の面白かったセリフや印象に残ったセリフを集めよう。特にハードボイルドな作品の言い回しが痺れるのさ。攻殻カウボーイビバップブラックラグーンなど。愛すべきハードボイルド(マウンティング)ポエムたち。

 

まず兎に角書いてみよう。書いて応募してみよう。それでも続けようと思えるのか?それとも満足してもういいかとなるかである。もういいやとなった場合でもまた書きたくなったら書けばいいと思うけど。

 

森(博嗣)先生は「20作書いてから話を聞こうか」と言っている。

 

とにかく文章を書き写すだけでもいいかも知れない。なんせ何か書く。毎日2パーセントくらいの角度で向上するイメージの努力を続ける(とにかくずっとつづける、毎日続ける。日常的にも、非日常的にも書く、生活の一部として恒常的に息をするようにするということだ。)

 

あしたは休みだ。

起きるまであるいは頭が痛くなるまで寝てやろう。自分がやりたいことをもう先人たち先行するレジェンドたちがしらみつぶしにつぶしていることに気付いて落ち込む訳だが、さらに細部まで掘り下げて続けるしかない、さらにやり続けた先にブレークスルーが待っているのかも知れない。安生先生は言った「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」と。段階があって一段一段しか上がれない。成長とダイエットは焦らないことだ。あとプロポーズも

 

文章を思いつくままに終わりを決めないで書いていく。気が付けばここから何も思いつかない、行き止まりだった、ということもあるだろう。とにかくいまはさっきから書いているが思いついたことを文章化してあとで客観的に読める文章にする練習をしているつもりだ。読み返さずに出来るだけ先にさきにすすんで書いていく。

 

そう考えれば(どう考えれば?)自分はあるひとつの作品についてどれくらいその作品のことを理解しているのか?と問われるとはなはだ疑問が浮かぶ。たとえ誰もが知っている、世界的にも有名な作品(例えばもののけ姫例えばとなりのトトロ)だとしてもだ、意外とストーリーを覚えていたとしても理解していることとはまた違うかも知れない。そう考えたら具体的に名前を出すのもあれだが(アメコミ)ヒーローものの世界は悪いやつがいて悪事を働くからヒーローがそれを倒してくれるのだ。だがその前にはヒーローが輝くためにあるいはそのヒーロー自身も大前提観客がその姿を見て手に汗握ったり敵を倒して恍惚感を得る為にヒーロー業を成しているに過ぎないのかもしれない。(現に興行収入が悪ければヒーローさえも打ち切りになる、打ち切りというあるいは経済活動という巨悪の前ではひとたまりもないのだ)だとするならば正義も悪もただのポジションにしか過ぎなくて実際につらいのは被害に合った人たちだけなのかもしれない。それもストーリーを立ち上げなければその人が被害者になることはなかったと言える。(実際にはもちろん事件や被害者は当然のように毎日出るのだが)

 

物を作る人にとって究極の目的は何か?絵を描く画家にとって究極、最高の目的はなにか?あるいはなぜ描くのか?すみれはすみれとしてただ咲けばよい(岡潔)という答えが正解(正解があるかどうかは別として)のような気がする。目的も何もただそれをして死んでいくことで十分ではないか?目的などおこがましくはないか?(岡先生がそう書いてたわけではありません)

 

<議論は結局有耶無耶になってしまうことについて。>

これが結局は権利を持つ側(権威側)に有利に働くのでゴネ得を生んでいる気がする。だからスマートコントラクトを中心にした権威権力を産み出さない人間組織というものが出来たらそれが一番不平等が少なくていい気がしている。どんな人間も上に立つことは認めない。ビッグブラザーを求めたのは人間自身なのかもしれない。

 

けれどそんな時代がくるまでは結局文句を言いながらも最後まであきらめずにやり続けるしかないのだろうと思う。すみれがすみれとして咲くように。

 

とぎれとぎれになりながらも途中完全な分断もありながらも再開し今日でこのブログ通算500日らしいです。(アメブロの方はおそらくもっと長いでしょうけど)百姓日記と名付けてから何日目かは定かではありませんがこれからも「書く」ことを続けていきたいと思っています。あわよくばなにかしらの作品の出版を目指しています、いまのところそれが何なのかまったく見えませんが「とにかく書く」を続けて何かしらの目標が出来るまでこれからも書くを続けていきたいとおもいます。いまのところはヨーヨーのようにあるいはコマのようにあるいはサッカーのリフティングのように、動きがスムーズになるように文章w使いこなしPCをブラインドタッチで打てるようにしよう。もうそろそろいいだろうと思えるまで研ぎ澄ましたり何度も何度も打ち込んだりしてみよう。