朝ごはん前の攻防

飼いネコ2匹にゾーンでマークを受けているような気分。朝ごはんが欲しいのだと思うが近くでオレの一挙手一投足を横目で知らんふりしながらチェックしている、そのことを俺は知っている。ご飯が置いてある棚の近くに行けば(冷蔵庫に飲み物を取りに行っただけ)目がくわぁっと見開いてもうご飯の時間だと言わんばかりに駆け寄ってきそうだ。気にされてるのは鬱陶しいが悪くない、愛情って受ける側にとってはこんな気分にさせるものなのかも知れない、濃く作り過ぎたカルピスのような甘くて贅沢な感じ(猫の方は気が気でないストレスなだけの時間だろうが)ご飯までまだ1時間ある。このあと走りに行こうか迷い中だ。ここ最近走れてないしあまり間を空けると二度と走りに行きたくなくなる、習慣とはかくも簡単に崩れいつの間にか変わっていくものだ、続けるってほんと難しいものだ。「辞めない」ということはその意味で大事だと思っている。一生続けてみて感じることもあるだろう。と同時に一生続けられなくて感じることもあるだろうが。そこで感じることの価値はどちらが高いのだろうか?これもまた功利主義だろうか?損得で考えている。余りに行き過ぎると何事も良くはない。結局よく分からないという結論。先人が考えたことがせっかく書いてある本を読むべき。人が考えられることに大差などないからせっかく時間を掛けて考えたことが本にすでに書いていましたみたいなことがあるから本を読んであらかじめ知った上でその続きを考えなさいということはとても理にかなっている。それがあとに生まれたものの役目でもありまた次に生まれてくるものの為にバトンをつなぐ行為はとても価値が高いことだ、貢献している。インプットはどこまでインプットすればよいのか分からない。けれど自分がインプット出来る量などたかが知れているだろうから好きなだけインプットすれば良いのだろう、その中でも選んでいる、偏っていることは間違いない。インプットしてその個人の脳を通してアウトプットすることに価値があるのかも知れない。だから出来るだけインプットして何の問題もない、膨大な量をインプットして初めて見えてくることがある。たまたま聞いたアニメの主題歌が米津の歌だったことにびっくりした。具体的には分からんがなにか引っかかる次元まで考えて作ってる。より細かいところまで配慮されているからびたっと決まってるのだろう。それは感じた。と書いてるうちにご飯の時間。走るのは夜にしよう。