正直に語る100の講義

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森先生の100の講義シリーズ2冊目になる。今回も面白かった。理系だからなのか、独特な性格だからなのか、近くに居たら確かに少しめんどくさいかもなと思わせる先生の言動がなぜか愛らしいと感じてしまうのは私(だけ)でしょうか?と早速引用したくもなる。

 


〇メモした箇所

 


3「才能」について、最も感じるのは、憧れの職種に就けなかった場合、あるいは、ライバルとの競争に負けた場合などに、「相手は才能に恵まれていた、自分には才能がなかった」という具合に諦めるときに、この「才能」は最も効果的に用いられている、ということだ。むしろ、この慰めのために、才能という表現がつくられたようにさえ思われる。

 


→これだけあやふやで曖昧な言葉に翻弄され続けた前半生だったが、敗者のために、つまりまさにそんな自分の為にあったような言葉だったという皮肉。

 


5「意識」は高い低いよりも長くコンスタントに持続する意識の方が高価値ではないか。

 


→高い低いを決めるのは「上から目線」が入ってるかどうかが大きな分かれ目でその「上から」かどうかを決めるのは受け取り手側の相手への評価が基準にある。セクハラかそうでないかが受け取り手側によるに似たり。「低い意識」だとしてもずっと変わらずに持ち続けることのほうが大事という。

 


7もともとは「できることをしよう」ではなく、「できることを続けよう」だったのではないだろうか。つまり大事なのは「続けよう」の方だった。できる範囲のことをこつこつと積み重ねる手法は、人が成功する王道ともいえる。(中略)この教訓の前半だけが残ったのは、やはり安易なものに流されやすい人の弱みゆえだろう。

 


→ここでも再び継続の大事さ。才能や意識や環境なども成功の大きな要因のひとつではあろうが、まず何よりも続ける事。それもそんな一年や二年の短期間ではなくとにかくしつこくこれでもかとやり続けたあとで初めてそれ以外の可能性について考えても遅くはないということか。

 


58→友達が居ない、少ないことは別に恥ずかしいことではないと世間一般でも言われているしもう市民権を得たものとてっきり思っていたが「友達になりたくない」という表現がまだ有効であることを考えるとどうやらそうでもないらしい。いまはまだその過渡期なのだろうか?友達が多い自分には存在する価値があり少ない自分はそうではないと断罪される。これもひとつのマウンティングなのだろう。人が人に対してマウンティングすることそれ自体が寝てない自慢のように恥ずかしいこと、馬鹿にされる世の中の常識として浸透すればその時ようやくその様な物言いも消えるのではないか。

 

 

 

59→「暇」。58「友達」と同じだがこちらの方はまだまだ世間にも浸透していないが「暇」が悪い、忙しいことが善とする価値観が「お忙しいところわざわざすみません」という言い回しにまだ残っているという。確かに歳をとればとるほどに「時間」の価値は上がっていく。だから73「優しさ」を測る基準がどれだけ相手がその人の「時間」を自分にかけてくれたかで測るということは分かるし正しいと思う。それだけ時間の価値は大きい。

 


だからベーシックインカム早よして。