若きサムライのために

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もう若くもサムライでもないが読んだ。その昔二十歳そこそこで本を読みだした時に"ジャケ買い"して手に取ったことを覚えている。今あらためて読んでも面白かった。対談のところは少し前提となる知識が無いので分からないことが多かったが、それも又何度も読んでいくうちに理解出来てくるのだろうと思う。ともかくもっと勉強せねばならないと感じる。それだけ三島を前にしたら自分がアホだなあとしか感じられない。劣等感を刺激されてしょうがない。もちろんアホなんだから仕方がないのだけど…早く(まともな)人間になりたあ〜い。とベムの様に叫ぶ自分だった。文中ピクンときたところ。「記録そのものにも才能がいり、あらゆるスポーツや技術と同じように、長い修練の過程がいる。修練をしていては、人生は楽しめない。また、冒険のただ中に記録の才能を訓練することはできない。そこで、人々が、自分の人生を記録しよう、それを世にもおもしろい物語として、後世に残そうと思うときは、たいていおそいのである。」「人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないという仕組になっている。」「かつてハイネがいみじくも言ったように、青年を決して鼓舞しないゲーテのような文学は、いかに古典的に完成していても、不毛にすぎないという見方がが生れてくる。ここに芸術に対する、相反する二つの要求が、人生の側から降りかかってくるのである。つまり、退屈した平和な時代は、ある意味では爛熟した芸術は生むけれども、その爛熟した芸術は、その生の不安に耐えられない魂を、十分に魅惑することができないという矛盾が起こってくるのである。」「服装のほんとうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではない(中略)服装は強いられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。」「人生は、成熟ないし発展ということが何ら約束されていないところにおそろしさがある。われわれは、いかに教養を積み知識を積んでも、それによって人生に安定や安心が得られるとは限らない。(中略)しかし私は確信を持って言えるが、どんな自由な世界がきても、たちまち人はそれに飽きて、階段をこしらえ自分が先に登り、人をあとから登らせ、自分の目に映る景色が、下から登ってくる人の見る景色よりも、幾らかでも広いことを証明したくなるに違いない。要はその階段が広いか狭いか、横になって一列に登れるか、あるいは縦一列でしか登れないかの問題である。われわれがその階段をいかに広くしても、階段をほしいという人々の欲求をなくすまでには至らぬであろう。長幼の序が重んじられなくなると、逆転して人々は「若さ」をもっとも尊敬しなければならなくなるにちがいない。」けだし名言の数々。またいつかあらためて読み直したい。